ふるさと
いまは関東地方の他には、鳥取県弓ヶ浜半島の彦名町と島根県安来市に親類がいるだけですが、私の生まれ育った米子市を紹介します。
http://uub.jp/rnk/p_j.html 人口動態によると、鳥取県と島根県は日本で最も人口の少ない県です。高校生の頃、自宅(メイン幹線道路から歩いて2分)から30分ほどサイクリングしたとき人間に一人も出会わない位過疎ってました。
鳥取県米子市は私のいた時代は人口20万でしたが、今は15万人位になっています。
米子市のメイン幹線道路は一本。皆生温泉から米子駅までバスで40分ほどで終わってしまうので、幹線道路沿いにすべての主な施設が揃ってしまうというコンパクトシティです。
年間観光客50万人の皆生温泉には数年毎だと思いますが緑のナントカイベントで毎回天皇陛下が宿泊されます。小学生の頃は大山までの沿道でよくお迎えしたものです。人口少ないので、一本の幹線道路を見渡す限り、日の丸の旗持って10分ほど待っているのが私ら2,3人だけということもしばしば。学校の前とか市役所の前でもない限りお出迎えの群集になりません。昭和天皇皇后、今上天皇夫妻、数年に1回はゆっくり笑顔を交わしていたので、かなり身近に感じられます。
私の通った小学校の前には山陰テレビ放送局があり、中学校の前には市役所があり、高校の横にはご先祖代々のお墓や小山があり、というコンパクトさ。じいちゃん宅は市のほぼ中心にあり、すぐ近くに公会堂や高島屋デパートなどなど。あらゆる移動に歩きか自転車で事足りてしまう、ある意味便利な小さい地方都市です。幹線道路から10分ほど逸れると、結構大きな古代資料館や、スケートリンクもありました。また病院が多く、人口比率の割合で日本一医者の多いところです。身内にも、友人知人にも医者がいましたから、お医者さんの面倒見がよくコミュニケーションもゆったりとれていました。
また意外なことに、生協一号店は米子市発祥です。ここから全国へ広がっていきました。しかし、だいぶん前にどこかの地域でウソの品質表示がバレて真っ先に生協離れしたのも米子市のおばさんたちのようです。東京に住んでいた私よりも母の方が先に情報を持っていてびっくりしたのを覚えています。
家から歩いて10分で皆生温泉の海辺へ、車で40分で大山ですから、海と山に囲まれてキャンプや登山は毎年のように行っていました。
私が18才まで住んでいたところは、田んぼに囲まれた上福原(かみふくばら)といって結構いい地名だなあと思います。高校生の頃、うちのあたりにUFOがたくさん来て、家族も近隣住民もたくさんの人たちが見ていてかなり話題になりました。
上森三郎氏の「岩戸開き本番」という本によると、モーセの生まれ故郷は今の鳥取県米子市だそうです。
母方先祖は大型商船を持ち、その船で400年ほど前に一族大勢で日本へやってきた大陸系で、鎖国時代に長崎で安南貿易をやって徳川家に珍しい品物を献上していたそうです。元々は大陸中央出身のようで、性質はまるで遊牧民、対して父方は出雲の農耕民族らしい考え方でした。当時にしてはネットもないのになぜかすごい先見的情報を持っていて、ウン十年もたってネットから情報を得て、父の言っていたことが本当にリアルだったとわかることが多いです。両方の親に影響されていますので、私自身は遊牧民族と農耕民族両方の性質を持っていると思います。
母方親戚はみんな足長で、母は真っ赤な赤毛、明るい茶色の目、色白、派手な顔立ち、娘たちよりがっしり大柄でした。日本的情緒がほとんどなくてテキトーでドライで明るい人でしたが、今にして思うと結構日本人離れした雰囲気だったと思います。
母の旧姓、鉅鹿(徳川家光からいただいた日本語読み:おおが)家の祖先魏之琰一族が明の宮廷音楽を日本に伝えました。ほぼ日本の雅楽です。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%A5%BD ・・・・鉅鹿(歴史書での日本読み:キョロク、中国読み:チールー)は今の北京北部地方に紀元前から1000年以上存続した小国の名前です。三国志の時代には「鉅鹿の戦い」があった国です。日本の県と違って中国は民族が入れ替わり立ち代わり、その名が国名だったり郡名になったり、県名になったり、あるいは地域範囲もかなり変転するのですが、一族の紀元前から今に至る2000年以上の足跡がわかっています。鉅鹿王族→明の大臣(九官、六官など)→福建省→東京(トンキン:今のベトナム北部)で貿易商→長崎で安南貿易、明楽を日本に伝える→直系は関東在住
ご先祖たちが建立した崇福寺 http://isidatami.sakura.ne.jp/soufukuzi1.html
ご先祖が眠る史跡 http://www.pref.nagasaki.jp/bunkadb/index.php/view/184
小学生の頃、祖父から聞いた話では、鉅鹿姓は日本全国で当時6軒のみ、大学教授でも読めないと言っていました。家光の当て読みですから知っている人でもない限り読めないのが当然です。
ちなみに雅楽で著名な東儀秀樹氏のご先祖は飛鳥時代の頃に日本へ来られたようですね。