父方先祖は出雲国郡司の家系。そのせいか、父、祖母と霊感が強く逸話も多かったです。私自身は子供の頃から体の一部が写真に写らず身体のむこうの景色がそのまま見えたり、異次元存在の不思議写真が多いです。
座っていると155cm位の小柄な人に見られ、急に立ち上がると驚かれて170cm近くの大柄に見られる不思議な身長。
●父の出身地、安来市(やすぎし)は、島根県(旧出雲国東部)の市。出雲国風土記によるとスサノオノミコトより安来と命名されたと伝えられています。
地名が文献上登場したのは天平6年(西暦733年)の『出雲国風土記』に「出雲国意宇(おう)郡安來郷」とあり、おそらく神代からの名称であり、都市名では最古の部類に属しています。
安来市は島根県の東端に位置し、鳥取県との県境。かつては神聖な地であったらしく、この地区の土地名を冠している神社名が全国に散見される例が他所よりも甚だ多い特徴を持つ。砥神(十神)、加茂(下鴨)、安来(八杉、安居)、伯太(博多)、広瀬、月山、能義(乃木)、磐船(岩舟)、意多伎(おだき=愛宕あたご)、伊勢、楯縫(風土記に残る郷の名称)宇賀(荘)、車山、飯生(稲荷)、比婆、久米、諏訪、吉佐、八幡、母里、桑名、社日など。
弥生/古墳時代の間にかけて出雲に強力な王権が発生するが(古代出雲参照)、その中心地(東部出雲王朝)だったという説があります。全国最大級の方墳である造山古墳群や出雲文化圏特有の四隅突出型墳丘墓(国内最大級の集中地帯)などを含む多くの古墳が発掘されており、弥生から古墳時代にかけて約500年の間、連綿と栄えた地域です。
神在月には出雲を目指す神様が安来湊(みなと)にまず集結し、鉄の買い付けを行うというような伝説も残っており、古代出雲の海の玄関口だったようです。(wiki等から引用)
安来市の足立美術館 日本一の庭園。日本一ということは世界一の日本庭園。https://www.adachi-museum.or.jp/ 父との思い出。2人の共通の趣味が美術館めぐりでした。
●不思議なご縁としては、いつも住んでいる場所のすぐ近くに出雲の神様方の神社がたまたまあること。家から5分ほどのところにある、ぬぼこ山神社へ行ってメッセージを受けたことがあり、そのときは、神社のお使いが神社出口まで見送ってくれて写真にオーブの姿で写っていました。
たまたま町田市に住む前に10年以上住んでいた埼玉県鷲宮町では、出雲族の草創に係る関東最古といわれる大社「鷲宮神社」があり、神社から歩いて5分位のところに住んでいました。
ぬぼこ山本宮(瓊宝庫山本宮)町田市玉川学園
現在、瓊寶庫山(ぬぼこやま)神社(別名 吉備石上神宮)から歩いて5分のところに20年以上住んでいます。
御祭神:スサノオノミコト、オオクニヌシノミコト、イセツヒコノミコト、アメノミナカヌシノミコト、タカミムスビノミコト、カミムスビノミコト。
スサノオノミコトの根本本宮が日本最古の神宮・吉備石神神宮。その秘宮の祭祀が天武朝のころよりとだえ、御神跡さえ不明になっていることを、本宮社伝・抜剣影山流宗家故宮崎雲丹先聖は、痛く嘆かれ、長年の研究探査の結果、昭和8年、ついに御真跡を発見されました。
そしてこの地(町田市)に多摩野宮として、出雲造の社殿を造営され、遷宮祭り、祭祀を中興されたのが、当宮の縁起であります。
その御真跡地が、吉備の抜剣山(ぬぼこ山)に在りましたことから、万葉仮名で、「瓊寶庫山本宮」とされました。
「ぬぼこ」とは、霊威ある御剣ということであります。
*抜剣影山流は、スサノオノミコトの天羽々斬剣(降魔の剣法)の伝流で、今から940年ほど前、丹波国の一之宮・元出雲神社の神影山に隠栖されていた影山善賀入道清重公を中興の大祖とする上代古流の武道。
こうしてみると出雲と刀はつながっているようです。友人に刀鍛冶師の子がいましたし、子供の頃、水晶と砂鉄はどこにでもあっていつでも手に入るものでした。自宅から歩いて10分ほどの海岸へU字型磁石を持っていくと、おもしろいように砂鉄がくっついてきました。海岸では砂鉄が取れるものだと思っていたので、他の海岸で砂鉄が取れないと知ったときは驚きでした。そして近辺の小山に登ればあっちこっちから水晶が顔を覗かせていましたから、よその小山ではすぐに水晶が見つかるわけではないというのを知ったときも驚きでした。
子供時代に金星へ帰りたい、という思いが強かったので、直近が金星人、その前がプレアデス人、その前がアルクトゥルス人、その前はアンドロメダ人でした。
19●○年代: 九州の公立大学に入学後、名古屋の音大に受かったが、入学間際に突然ココロ変わりしてデザイン学校へ入学。数年間デザイナー(色がメイン)の仕事をする。
19●●年代: 数学と英語の受験塾を自宅にてウン十年間続ける。理数系が得意。
19●●年~200●年: 10年間ほどIT業界でネットワークエンジニアとして外資系企業と日本企業を行ったりきたりする。CCNP資格は宇宙人♪(科学者)のサポートにより数ヶ月で取得。
某大手通信会社では、シリウス星人から宇宙人といわれていました。まあ私はプレアデス星系ですから、星系が違えばお互いに宇宙人なのでしょう。
2005年~: クリスタルボウル販売、演奏者養成コース主催。
2007年2月: インターネットショップ開始。日本で始めてのクリスタルボウル専門ネットショップです。
2008年~: クリスタルボウル製造工程に関わり始める。
2011年11月11日: 日本初・水晶ボウルの製造販売開始。高音の小さいサイズのクリスタルボウルは水晶の響き(旧アクア*クリスタル)だけのノウハウであり、勿論世界初。周囲に製造関連技術者等が複数いる環境もありましたが、ほとんどは夢からのメッセージに従いました。それを3次元で確認しながら現実化しています。
2012年初頭: 夢で円錐ピラミッドがでてきて、それを現実化する。統合の時代のピラミッドとのこと。
2016年4月:夢の中でずっと存在していたロータスぼうる がついに3次元に出現。うれしくて社名・店名変更しました。
よくいろんな方から、なぜクリスタルボウルを作れるようになったの?と聞かれます。正確には、水晶楽器の【設計】をしており、最高の音質を探求しています。
特に自分ではこういう方向へくると予想していたわけではなく、願望と自然な成り行きが一致したというのもありますが、メッセージ性が強いので、自分で心あたりを思い出してみます。
20代前半は音楽の道とデザイナーの道を迷ったあげくデザイナーになった芸術志向で、
次に理数系が得意なのを生かして自宅で塾20年間、外資系/日系企業でネットワークエンジニア10年間。
得意分野が芸術系と理数系です。また子供の頃から直感が働きやすかったのが、青森の白山でキクキリヒメ(ククリヒメ)から一瞬のうちに多くの情報を受け取ってからは、クリスタルボウルに関する質問なら何を聞かれても答えられるようになりました。
ヒーリングの世界へ入って、USA製造のクリスタルボウルを仕入れ販売。数百個に及びますが、そのときに得意のデータ集計を探究心でやっていました。1個ずつ音を聞いて計測してはデータを積み重ねていきました。その中でC社の音階精度はおよそ80%、K社の音階精度はおよそ93%位とかいろいろ判明したこともあります。
材質や形状の違いによる、音質、音階データが今の日本の水晶ボウル製造の基礎になりましたが、小さいクリスタルボウルは世界的にも未知の世界でした。そこからは、ククリヒメメッセージとの2人3脚のようなものです。当時はまだセラミックガラス素材のクリスタルボウルなども出現していませんでしたから、本当にいいタイミングでした。
そして日本でクリスタルボウルをつくるとなったとき、製造関係の人、水晶(石英)加工の人たち、いいタイミングでサポートしていただけました。
経験と、さまざまな人とのご縁、下りてくるメッセージ、これらがタイミングよく出会ったおかげで、今の日本製クリスタルボウルが生まれました。
追加: クリスタルボウルというものを知る数年前に中国で友人からネパールのバラモンを紹介され、そのバラモンが言うには「あなたは宝石のように高価で、宝石よりも精神性の高いものを仕事として扱うととても発展する。」と言われたことがあり、それから十年以上もたって、ようやくクリスタルボウルのことだとわかりました。当時はクリスタルボウルのことを全く知りませんし、商売も考えていませんでしたから、宝石位しか思いつかず、宝石には興味ないけど、、などと思いつつ半輝石(主に水晶系)の勉強などをしていました。
母方のご先祖が眠る史跡 http://www.pref.nagasaki.jp/bunkadb/index.php/view/184
鉅鹿家の祖とその兄魏琰禎の二人を祀る前方後円の中国式墓。
鉅鹿家の祖先魏之琰と兄の魏琰禎(六官)は明朝滅亡後、長崎に来航し安南貿易に従事し、巨商となり、崇福寺の大(おお)檀(だん)那(な)として活躍した。鉅鹿家は明の遺臣魏之琰(九官)を祖とする長崎在住の中国人の名門。鉅鹿の姓は魏之琰が徳川家光から中国の魏の発祥地、河北省鉅鹿の地名を賜わったものという。・・・・・・・・長崎県文化財HPより
鉅鹿: 昔の日本の教科書ではキョロクと読まれ、中国語読みではチールー、母の旧姓が鉅鹿(おおが)でした。鉅鹿一族の中では、今の北京の北にある鉅鹿県(昔は国)の紀元前からの王族だったという話です。
・Wiki 「明楽」より: 魏之琰から四代目にあたる魏皓(ぎこう)(1728年?-1774年)(魏君山。鉅鹿民部規貞)は、特に秀でた音楽の才能を持っていた。彼は家督を継ぐ事を好まず、また自分の家の中だけで伝承されていた明楽を世に広めたいと考え、京にのぼり諸侯の前で明楽を奏した。また姫路藩主の酒井雅楽頭の扶持も受け、一時は百人もの弟子を抱えるまでになり、広く明楽を貴族階級、武士階級に広めた。明和5年(1768)、魏皓は明楽の曲を工尺譜(こうせきふ)で書き表し、門人のための教科書『魏氏楽譜』を刊行した。魏氏伝来の楽曲は全部で243曲の多きにのぼった。 明楽は、明の時代このようにきちんとした楽器や楽士を使う音楽は宮廷のみで許されていたそうです。日本の雅楽との共通点が多いです。
関連キーワード: 魏志倭人伝、ヒミコ、鉅燕